昭和44年11月21日 朝の御理解
                            中村良一
御理解 第95節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」



昨日は、私、菊栄会の方達の、何時も大祭後に、次の菊栄会の、二十日の日を、私中心と言うか、私を、まぁ慰安で、言うなら、例によって、昨日は、日田に参りました。昨日は、菊栄会の全員の人達が集まりまして、それで、一行、日田に参りまして、もう、何時も、何ち言うですか、窯元巡りなんかをしておりましたけれども。今度は少し、趣向を変えましてね。非常にこの、最近、この、高塚の地蔵さんという、大変な、いわゆる、はやり神様ですねぇ。大変なお参りがあるという事を聞いておりましたから、そこへ、一つ、お参りさせていただこうち言うて参りました。日田からまた、随分あります。大変な、やっぱり、お参りですね。ずっと、その高塚行きのバスが出ておるくらいでございますから。昨日はあの、お湿りの中に、やっぱり、相当お参りがあっておりました。沢山のローソクが、沢山のお線香が、この、煙り燃えておる中にですね。もう、一人ひとりが真剣に、やはり、拝んでおられる。まぁ例えば、高野山にお参りをするとか。天満宮さんにお参りをするといったような、遊び半分じゃない。もう白真剣に、やっぱり、ご利益を受けなければならないという人達ばっかりですから、拝むとでも、実に真剣に拝んでおられます。お百度を踏んでおる人もあるし、一生懸命、御祈念をこらしておる人もありますです。いうような事でした。大体、もう大変、古いお地蔵様らしいですね。もう言うならば、その村で、村の氏神様のような性格のとこらしいですね。別に、誰だとこう、当人さんがおられるわけでもなからなければ、神主さんが居られるという訳でもない。まぁ、お祭りといや、他所から、まぁ、神主さんが見えて、御大祭を、やっぱり、御大祭とこう言われますですね。それをこう仕えられるといったような訳です。なるほど、お金がかからないですよね。線香が十円、おローソクが十円、二十円あればお参りが出来るとこです。ね。
で、やはり、一生懸命に拝んで参る。第一その、キャッチフレーズが素晴らしいです。もう、それこそ、もう欲に固まった人間の心を、キャッチしなきゃおかんようなのが、そこのキャッチフレーズですよね。人間の願い事、一つだけは、必ず、叶えてやると言うのです。一つ、一つの願い事だけなら、必ず叶えてやる。ね。ですから、やっぱり、本当にその、その人その人の、様々な難儀と言うものがありますよ。金に、本当に不自由しておる人はね。今、金さえあれば、ほかは、何も要らんという風に思います、人間というのは。もう、うちの人は、金も要らん、物も要らん。この病気さえ、ようなしてもらえば、もうそれで良いと、こう思います。息子が、大学の試験に、ね。幾年も、幾年も、続けて滑りますと、もう、その息子のために、かけやと言う親達があります様にですね。そういう、それ一つ頂いたから、幸せになるという事は、決してないのですよ。ね。けれどもその、その、なんて言うですか、人間の欲望と言った様なものを、掴むというか、その、くすぐるようなですね。そういうようなものがですね、あそこが、あのように沢山のお参りがあるのは、その辺に、秘密があるように思いました。ですから、どんなに沢山のお参りがあったところでです。ほんなら、高塚のお地蔵さんにお参りをして、人間の本当の幸せを把握したという人は、先ず、一人もなかろうと、こう思いますね。ただ、人間の、いわゆる、目先目先の欲望なんです。その、目先目先の欲望をです。本当に叶えると言われたと、こう言うのである、お地蔵様が。人間の願い、一つだけは叶えてやる。けども、人間の欲望ですから、一つ叶えてもらったところで、ほんなら、次には、また、願いの、そのやっぱり、そこの何と言うですかね。高塚地蔵さんファンになってしまうところを見ますと、また次の願い、また次の願いというのをするのじゃないでしょうかね。なるほど、お金はかかりません。ね。十円の線香と、十円のローソク、いや、そのローソク一つ上げんでも、誰も、どういう者もありません。けれどもしかし、よくよく考えてみると、お金は沢山かかりよるですもんね。あぁいう山の中、大変な山の中ですから。例えば、この辺から、沢山お参りがあるそうですが。例えば、この辺から、バス代を計算したら、随分な金になるだろうと、こう思うのです。けれども、そういう事にはですね。無頓着。ただ、仏様にあげんで良かという事だけが、何か、金はかからんと言うような風に、ちょっとこう、錯覚するんですね、人間が。歩いて参りよる人はありますまいから、みんな、やっぱり、乗り物を、やっぱり、ハイヤーを駆ってお参りする人もある。自家用車でお参りをする人もある。ね。一つだけは、叶えてやるという、その、お地蔵さんの、そのキャッチフレーズがです。人間の欲望を、掴んで外さないようなものがあるという事ですよね。
私は、今日、御理解を頂こうと思うたら、この九十五節を頂いた。ね。これこそ、やはり、何と言いますかね。神を商法にするというのは、こう言う生き方でなかろうかとこう思うですね。なるほど、そこでは、仏様にはあげんでも良かごとある。お地蔵様には、お供えせんで良かごたるけれども、実を言うたら、そうではない。そこに、人間の、その、とにかく限りない欲望を満たすか満たさないかは分からんけれどもです。満たされるとして、皆がお参りをする。満たされたからと言うて、人間の幸せを把握すると言うような信者は、一人もなかろうと思う。
昨日から頂きます、御理解のようにですね。とにかく、またの御理解にありますように、一心を立つれば、わが心に神がござるから、おかげになるのじゃと言う類のおかげが、そこに立つのも、これは理の当然です。ね。一つ、願い事を叶えて貰わんならん。ですから、お百度も踏もう。一生懸命に御祈念もする、ね。一心を立つるから、一心を立てればね、わが心に、神がござるから、おかげになるのじゃと。それは、石の祠でも良かれば、木刀を拝んでも、だから、同じことです。ね。それは、まぁ奇跡とも思われるようなおかげが、必ず、その一心を立つれば、拝むことによって、立つことも、これは、理屈の上でも、合点の行くことです。ね。必ず、お参りをしたら、一遍通り拝んだら、おみくじを引くところがある。こう、三つか四つかあるようでしたが、そこでその、十円入れますと、おみくじが出てくる。その、おみくじが当たるというので、また、評判なんですね。私共も、お参りせて頂いて、おみくじを引かせて頂きました。本当にもう、当たりますよ。ね。
昨日、昨日の朝の御理解を頂いておる人達だったら、ほうち思うくらいに当たります。それぞれに。昨日、私はあの、正義さんのことを申しましたでしょう。久富正義さんのことを。正義さんが引きました、なんか、大吉の何番かと言った様なのでしたがね。一番、お前が慎まねばならないのは、酒色を慎めと書いてある。ね。同じ、大吉の何番か、大和さんが引いとるのは、酒を慎めとだけしか書いちゃない。正義さんが引いたのには、酒色を、酒と色を慎めと書いてある。ね。それこそ、あの正義さんが、神願を立てておる、ね。その事を、例えて言うならば、もう、何十年にもなるから、それが揺るんじゃならんと言う。改めて、言うて下さるような気がする。同じ大吉ですから、ほんなら、大和さんのも、酒色を書いても良かとに、あの人のとだけには、酒だけを慎めと書いてある。
私が、引かせて頂いたのも、やっぱり、大吉でした。しかも、私のは、その、ずーっと、番号が打ってあるんですね。おみくじに。もう大吉の、第一番と書いてありました、私のは。そして、これにはもう、全然文句なしの事でしたね。どういう事が書いてあるかと言うとね。天地に響き渡る、滝のようなものだと書いてありました。天地に響き渡る、滝が落ちよりますよね。天地に響き渡る滝のようなものだと。当たりますですね、いうなら。当たるというよりも、勿論、これは、私はあの、いわゆる、私の信心が、そういう風に、まぁ、現れて来るんだと、自分では思います。ね。そら、地蔵様が教えて下さったと言う人もあろうけれども。私は、天地が教えて下さったんだと、こう思います。天地が示して下さるんだと。ね。
銭金では拝まん、神を商法にしてはならぬと。なるほど、高塚のお地蔵さんは、お金をお供えしなくても、どうでも良い。十円の線香がありゃ、十円のおローソクがありゃ、拝まれる。ところが、実を言うたら、沢山な金を、皆が使いよるという事です。第一、(?)だけだって、ね。しかもその、商売人じゃないけれども、そのキャッチフレーズが素晴らしい。ね。人間の欲望をです、ね。何か、一つだけは叶えてやろうとこう言うておる。叶えられる叶えられんは別としてです。それは、例えば、今も申しますように、一心を立つるから、おかげになるのじゃと言うおかげも、現れておる事も事実だと、私は思います。なぜて、一心を立つるからです。それはもう、普通の、ほんなら、お宮さんやら、お寺さんにお参りしておる姿とは違う。もう、一生懸命に、その祈願。その代わりにもう、その、何と言うですかね。あれは、あぁいう風にしなければならん、お百度を踏むと。まぁ例えば、病気の人が、病気の名前がね、糖尿病、糖尿病、糖尿病と言うのを、まぁ沢山書いたのが、こう貼ってあります。試験に合格しなければならん人は、何々の試験、何々の試験、何々の試験、何々の試験と。胃の悪い人は、胃、胃、胃、胃という字を、沢山書いて、奉納してあります。それは、あの、五願成就にお供えするじゃなくて、願うために書くらしい。もう、家で書いてきて、それを貼るわけなんです。ね。例えば、そういうその、ほんなら、糖尿病の人、糖尿病と言うのがありましたがね。私が糖尿病だから、やっぱり、気が付いたんです。糖尿病なら、糖尿病が苦になってたまらんもんですから、糖尿病が一つ治ったらと思うでしょう。ですから、例えば、それを五百も千もの字を書いて、糖尿病、糖尿病、糖尿病と、書くだけでも、一心を立ちますよね。そこにね、やはり、不思議な、私は働きが始まる。
私は、昨日も、皆さんに話した事ですけれども、本当にこの、空気中にですかね。もう、どうにも出来ない神様の、いわば、働きと言うものをです。いっぱい働きを感ずる。その働きを、キャッチするというかね、頂きとめるのが、一心なのである。人間は、まぁいうなら欲の塊のようなものであるから、その人間がです。それぞれが、一番、今願っておるもの。もう、今、金さえありゃ、何にも要らんと、今、健康さえ与えてもらえば、何にも要らんと言う、そういう願いを、聞き届けてもらうならば、それは、どれだけの金を使うてでも参る。そら、向こうにお参りしてからは、十円のお線香で良か、十円のおローソクで良か。そこん所だけを、金がかからんと言うけれど、実を言うたら、金は沢山、かけておるということ。ね。
私は、まだその、銭金で拝まんと教祖が仰っておられる。銭金で拝まんと言う、ね。神を商法にしてはならぬとこう言う。ね。色々ありますよね。例えば、結婚式、三千円、五千円、一万円と、それだけの、いわば、商品のように、その金額を払わなければ、結婚式がしてもらえないといった様な類もありますね。お宮さん辺りでも、やっぱり、ある意味合いで、神を商法にしておる訳です。神を、銭金で拝んでおる訳ですね。けれども、この高塚のお地蔵さんの場合も、これはもう、完全な、私は、商法だと思いますね。その商法の、言うなら、商売人が使う、駆け引きに、完全に、人間が引っかかっておるというだけです。今、私が申しますような、その、素晴らしい駆け引きにかかってるんです。金が要らん、ね。そして、その、いわゆる、広告の文句ですね、そのキャッチフレーズが素晴らしい。一つだけは、叶えてやろうと、こう言うておる。ね。人間が、一つ、二つの欲望を叶えてもらったからと言うて、幸せになるはずは無いですから、その高塚のお地蔵さんにだって、本当に心が救われて、本当の幸せを味あうていく、感じていくといったような人は、先ず、何万人、お参りがあっても、一人もないだろうと、私は思うて帰りました。
皆さん、本当に、もう少しですね、それがもう、本当に可笑しいんですよ。もう、本当に、この人がと思うようなですね。もう、神の仏のと言わんごたる、学問を身に付けたりなんかする人がです。やっぱり、こっそり参ってるんですよね。一つ、欲望を叶えてもらいたいもんですから。可笑しな話。だからまぁ、信心と言うものじゃない。ただ、そういう風にして、奇跡を現すという意味ならば、それは私が、今、申しますように、ね。木刀一本を拝んでも良い。石のこけらを拝んでもかんまん。そこに、一心を立てれば、わが心に、神がござるから、おかげになるのです。ね。私共の場合は、そういうおかげという事ではないですね。勿論、そういうような願い事から、ね。いわゆる、信心です。本当の信ずる心、真心、ね。神心。最近で言われております。心を尽くすということ。といったような事をです、私共の生活の上に頂いて、実意丁寧な生き方を、生活に頂いて行く、そこに人間の幸せを、いよいよ、分からせてもらう。信心の有難さを分からせてもらうと言うのが、御道の信心なんですね。
山を降りましてから、広瀬淡窓と言う、日田に大変な学者がおられましたですね。もう、百十何年ぐらい前に亡くなられた方なんです。まぁだ、塾を開いておられた、そこんところが、そのまま、家が残っておる、何とも言えんたたずまいの中にですね。ございます。中に、お爺さんが一人おられまして、そのお爺さんが、ずっと、説明をして下さいました。もうゆっくり、そこでさせて頂いてから。いろいろお話を聞かせて頂いたんですけれどもね。こういう事を、お爺さんが言われました。淡窓の教育方針、根本的な、根本的なと言うが、その、教育の根本と言うのはね、天を敬うということでありましたという事です。そういう額が掛かっております。天を敬うと書いてある。今、あぁいう大学生の人達の紛争なんかが、紛争と言うですかね。ああいう、様々な事があっておりますが、ね。ここん所を、教育の根本にしたならばです。絶対、現在の様な事にはならないのだけれどもと言うて、大変、現在の教育のあり方を、憂るえておられました。ね。
例えば、どのようにです。頭の悪い子供であってもです、ね。例えば、子供に、しゃっち限ったことではないけれども、頭の悪い人でもです。ね。それはね、天が与えたものだと。と言うのが、その、淡窓の教育の根本だったらしいですね。そして、段々、お話を聞かせて頂いております。その当時に、全国から、それこそ、もう沢山な、いわゆる、秀才、天才と言われるような人達が、日田に集まっております。何千と言う人達が集まっておる。その中には、大変な有名な学者が、沢山おります。いわゆる、淡窓の教えを受けた人達。それがが、ずっと、何と言うですか、入門、入門控えと言うのがありましてね。それを見せて頂きました。もう、やはりその、秀才、天才、もう十二歳ぐらいで入門しておる人がありますね。もう、全国の、津々浦々から集まっております。私は、その話を聞きながら、もう、何回も何回も、感動いたしました。ね。問題はね、その中心なんです。その淡窓の人格と同時に、その学問が優れておったという事がですね。全国の津々浦々から、集まってきたということ。それは、ちょうど、甘いものに、ね。蟻が集まってくるように集まってくる。問題は、中心なのだと。沢山な時間も、沢山なお金も、ね。いわば、持ち跳ねて、淡窓の元に集まっておる。しかもその、淡窓の人格と、その淡窓の学問がです。その一人ひとりの弟子の上に現れて、ね。当時の素晴らしい学者と言われる人達が、その学問を身に付けております。ね。
私、大体が商売人ですから、どうしてもその、商売人の根性というものが、やっぱ、抜けんのですね。やはり、駆け引きが強いと、皆が言われますよ。親先生は、なかなか、駆け引きが強いち。もう、駆け引きなんてしよらんつもりばってん、駆け引きが出てから、自分ながら、本当にあの、幻滅を感ずることがあるんです、やっぱり。お話の上やら、言葉の中にもです。ちゃんとその、計算した駆け引きがしておる訳です。場合には皆さんが、その駆け引きに、引っかかっておりまなさる場合もありましょう。けれどもです。それは、皆さんが、本当に助かることのためになのです。
私もその、高塚のお地蔵さんにお参りさせて頂いてですね。どうして、あれだけの人が集まってくるかと。集まるかと。ね。そこには、素晴らしいその、キャッチフレーズがあるということと同時に、お金がかからんという事。合楽の金光様にまいりゃ、お金はかからん。もっと素晴らしい、キャッチフレーズを作ってから、一つ、宣伝したらどうじゃろうかと言った様な考えはないですけれども。しかし、どこにか、あったかも分かりません。ちょっと、わざわざ、見学にも行こうち言うのですからね。厳密に言うと、あったかも知れません。だから、ね。よし、例えば、それで人が集まったに致しましてもです。ね。それでは、やはり、本当のおかげにはならない。という、同じような意味のことなら、私もこら、必ず申します。
始めて参ってくる人に、もう、絶対に、おかげになると、私は、皆さんに伝えます。ですからこれは、どのような、こんがらがった人間関係であろうが、どのように、例えば、もう医者が、匙を投げたという病人であろうがです。もう絶対、こらもう絶対、何故か私は、始めは御理解致しません。だから、あなた方が、おかげと思うたら、また参ってお出で。そん時に、ゆっくりお話してあげましょうと、こう言うんです。これはまぁ、高塚のお地蔵さんより、的確です。一つは叶えてやると言われるけれども、叶えられていない事実を、私は知ってます、高塚の場合。ね。叶えられとらん証拠に、三年も五年も、いわば、一つの願いの為に、参っておられてる人があるのですから、ね。ところが、合楽の場合は、こらもう、絶対なんですよ。もう、どういう、どういうもう、あの、医者の見放した病人でもです。私が、お取次ぎをしたならば、必ず、はぁこれがおかげじゃろうかという事が、必ず、起こっております。ね。一つだけは叶えてやろうと、その病気が治るというところまで行っとらんばってん、印だけは見える。それが素晴らしい。だから、その印に、元気を得て信心しなさい。そして、お話を頂きなさい。御理解を頂きなさいというけど、その辺の所でです。だから、合楽にお参りをすると、必ず、三日参る、五日参ったら、喜びの芽が、必ず出る。心の中に。その喜びの芽をです、いわゆる、育てきらん人が、沢山ある事は事実です。また、私から言うと、育てきらんと言うことは、まぁ私の不徳だとも思います。けれども、その印だけなら、絶対見えます、合楽の場合。こら絶対ですよ。はぁ、こらやっぱ、先生が言いよりなさったが、神様のおかげじゃろうという風にです。このまま肯定していくなら、おかげになっていくじゃろうと言った様な印が見えてくるです。例えばその、事件ごとであろうが、病気であろうがです。ね。ですからその、印を見て、お互いが、本気で信心する気になればです。一心を立つれば、おかげになるのですけれども。その一心を立てん先に、ね。ちょっと、おかげち思うたばってん、ありゃ、偶然じゃったじゃろうと言うような考えをするらしいですよ、みんな。長く続かない人が多いです。ね。
そして、私は思いました。ね。淡窓のお家にで、そういう色々なお話を頂きながら、何べんも何べんも感動した。それはね、私は、それこそ、全国、ね。それこそ津々浦々からです。合楽へ、合楽へと、それこそ、草木もなびく様に、ね。集まってくるようなおかげを頂きたい。そういう例えば、宣伝とか、キャッチフレーズによって、集めるのではなくてです。それこそ、甘いものに、蟻がたかってくるようにです。淡窓の学徳を慕って、当時の学者が集まってくるようにです。本当の、真の信心を求める人がです。私自身の内容に、真の信心が、本当に如実されるならばです。ね。それに、真の信心を、いわゆる、おかげじゃないよ。真の信心を求めて、合楽へ、合楽へと集まってくるんだ。問題は、私自身が、もっともっと、立派な信心を頂かなければならんのだと、ね。銭金では拝まんと言われるが、それこそ、幾ら金がかかっても、ね。どれだけ、お供えさせて頂いても、真の信心を教えてもらうならば、金に糸目はかけないという様な人達がです。全国、それこそ、津々浦々から、集まってくるようなおかげを頂くためには、宣伝じゃない、文句じゃない。私自身が、もっともっと、立派になることだという事を、何回も感じる。感じるたんべんに感動した。私は、淡窓の家にやらせて頂いて、淡窓野話を聞きながら。そのお爺さんがお話されるのが、お爺さんの顔が、見えんくらいに、涙が流れた。その、なんち言われるか分らんくらいに、聞かれるくらいに、私は、その事を考えた。お話聞きながら。ね。
皆さん、本当にです。ね。こら、私自身も、今、そこん所を、求めに求めしておる訳なんです。真の信心を、求め求めしておるのです。ね。だから、皆さんも、そこん所を、求め求めしての信心にならなければならない。そん為に、幾ら、本当のことを教えて貰わんならん。いくら、例えば、月謝納めたって良いじゃないか。ね。高塚のお地蔵さんじゃない。なるほど、お金はかからん。十年の線香一本、十円のローソクだけで、拝めれる。十円のおみくじさんだけで、いわば、ね。自分達の、例えば、相場をする人ならば、相場は、今買え、今買うちゃならんといったような場合は、ちゃんと書いてある。一つの欲望を叶えてもらうためになら、なるほど、高塚の地蔵さんのほうが、それこそ、合楽よりも、よかかも知れん。ね。けれどもね、ほんなら、何千、何万参ったところで、高塚の地蔵さんで、真実、人間の幸せをいただかせて貰うとか、真の信心が分かるといった様な事は、一人も半人もなかろうと思う。しかも、今日の御理解から言うなら、ああいう生き方こそ、神を商法にしておる生き方であるという事を、今日は、高塚のお地蔵さんに、昨日、参拝させて頂いたことから、広瀬淡窓のお話を聞かせて頂いたことから、この九十五節を、今日は頂いた訳なんですよね。
よくよく、もう一遍、皆さん、考えてみて下さい。合楽の信心が、どういう方向へ向っての信心なのか。また、ここにご神縁を頂かれた方達に、どう、私が求め、また、神様が求めておいでられるか。ね。そこん所を、はっきりしての信心という事になって参りましたら、自ずと、高塚のお地蔵さんと合楽の、これは、合楽のという事じゃありませんけれど、ね。私の信心との、そういう相違点とでも申しましょうかね。まぁ、私からいや、あれは、信心と言うものではないと。信心とは、どこまでも、いよいよ、信じて病まない、信ずる心を作っていくことであり、真心を作っていくことであり、神心を作っていくことであり、行の上においては、心を尽くすことの生き方、あり方を覚えて行く事。それが、信心なのだと。目先のおかげ、目先の欲望を叶えて貰おうという事は、これは、私は、むしろ、信心と言う言葉をもってしては、いわゆる、神やら仏を冒涜するようなものだと、私は思います。ね。そこん所を一つ、分かって、同時に、今日の九十五節ですかね、を、改めて頂いてみると、はっきりしてくるのじゃないかとこう思うですね。どうぞ。